2012年3月21日水曜日

三国志と水滸伝の時代はかなりはなれているそうですが、物語に登場する武器はほと...

三国志と水滸伝の時代はかなりはなれているそうですが、物語に登場する武器はほとんど同じような感じがします。

当時の中国では武器はあまり発達していなかったのでしょうか?



原作は読んでいません。。







『三国志演義』は西暦3世紀始め「後漢」末期からの物語ですが、

正史が基になっていますので、基本的には史実です。

『水滸伝』は西暦12世紀頃「南宋」を舞台とした物語ですが、

登場人物の一部は実在の人物ですが、物語自体は史実ではありません。

三国志演義は、明代15世紀頃描かれ、

水滸伝も、明代15世紀に描かれました。



『三国志』に登場する、

関羽の『青龍堰月刀』も、

張飛の『蛇矛』も、

呂布の『方天画戟』も、

元代から明代にかけて開発された武器といわれています。

キャラを立たせるために作られた設定

(演義や京劇が成立した明)というのが事実みたいです。



したがって、

同じ年代に書かれた「三国志演義」と「水滸伝」に登場する武器は

ご指摘通り、大変よく似ています。



三国志に登場する武器兵器は、

明代の武器を参考にして描かれたため、フィクションの部分が多く、

水滸伝に登場する武器は時代背景にほぼ合致しているといわれます。



もっといえば、

馬上から弓を射る場面が、演義などに度々見えますが、

これも怪しいのではないかとも言われています。

というのは、当時まだ鐙(あぶみ)が発明されていなかったからです。

(騎乗時の保持の目的として鐙が確認できるのは、

隋代の副葬品の騎馬傭からだそうです。)



疾駆する馬上で上体を固定するのは太ももの筋力しだいで、

つまり馬上から弓を射るのがとても難しいといわれます。

もちろん、騎射を得意とする人物もいたのですが、

それを組織的戦力として運用するのが難しかったみたいです。



趙の武霊王(BC300頃)はその古い習慣を打ち破って

「胡服騎射」を採用しました。

胡服は異民族の服(馬に乗りやすい服。つまりズボン状の下履き)を着て、

騎乗して矢を射るという事です。

しかし、武霊王死後、次の恵文王(BC280頃)は、

胡服騎射を廃止し元に戻しました。

結局、始皇帝の兵馬庸を見てもわかるとおり、

戦国時代以降、元がモンゴルから騎馬で南下するまで

中華には乗馬はあまり定着しなかったといいます。



三国時代の「飛び道具」は、弩が一般的だったみたいです。

ところが、

『演義』と、それを元に脚色した漫画や映画には、

弩が全く登場しません。むしろ騎射のシーンが多いようです。

それは何故かといえば、

『演義』に描かれる戦闘は、

実は「明の時代」の軍制や兵器や戦術を参考にしているからです。

そして、明の時代には、弩があまり使われなくなっていたそうです。



ちなみに、三国時代は戦に明け暮れていましたので、

兵器の製造に大きな発展があったといわれます。



魏は兵器の品質を大事にしていたといわれます。

曹操は五把宝刀を製造するため、三年の期間を費やしました。

それは「百辟刀」とも「百煉利器」とも呼ばれました。



曹植は『宝刀賦』という詩を詠んで、これを讃えました。

曹丕は楚や越の優秀な職人や技術者を招聘して、

鉄刀、鉄剣、鉄匕首を製作しました。

史書の記述によると、

これらの兵器の文様は霊亀に似ていて、形は龍鱗のようであり、

色は丹霞に比し、白さは厳霜であるかのようとされ、

高い品質を誇ったといわれます。



蜀の諸葛亮は漢の時代の旧式連弩に対して改良を加え、

一種の新式連弩を発明し、十の矢を同時に発射でき、

威力は旧式連弩の威力を飛躍的の向上させたといいます。



諸葛亮は、さらに刀を作る専門家・蒲元に

斜谷において鋼刀三千本を鋳造するように命令し、

刀の焼き入れについて詳細に研究し、

その鋭利な刀は、「神刀」と名づけられました。



呉の江南においては、

孫権が武昌一帯において銅や鉄を採掘し、

長さ三尺九寸の方頭鋼刀一万本、宝剣十本を鋳造しましたが、

その強さは比べるものがないほど抜群だったといわれます。








武器の発達ですか?

三国志は言わずともかなり昔です。

火薬の発明は、「唐」600~900ごろです。

水滸伝の「宋」は960~1279

蒙古襲来の「元」は1271~1368

蒙古襲来で手榴弾のような火薬の兵器が使われたのは有名ですね。

戦国時代の後、秀吉の朝鮮遠征で、明軍は日本よりも劣っていた銃を所有していました。



武器が発達しにくかった理由は・・・。

1:古来から中国の学問は、「実用的」な学問ではなく、「精神的」な学問を重視してました。

朱子学では「気」「理」など、儒学では「礼」「義」「忠」やら・・・。

今となってはほとんど役に立たない学問ばかりです。

精神的な学問ばかり発達(?)していたせいで、実用的な部分が発達しにくかったわけです。

2:階級社会なので、有能な人材を見つけにくく、兵器開発がしにくかった。

兵器開発しても認めらず、科挙試験で合格したり、武功を上げたり、賄賂贈ったりして認められる社会です。

3:科挙制度。エリート官僚輩出のための試験制度が科挙です。科挙に合格するために必要な学問は、儒教の経典「論語」や「孟子」など、五十七万文字の丸暗記などなど・・・。非実用的で、まったく役に立ちません。

4:中華思想で、周辺国よりも自国が優秀であるという意識があったから、学問を周囲から学ぼうとする姿勢が乏しかった。



1900年に清王朝で起きた義和団事件。

列強の侵略に、民衆が反抗した事件ですが。

義和団では、孫悟空や諸葛孔明などが祭られて、信じるものは刀や銃弾を跳ね返す不死身の体を持てる、と信じられていました。

この義和団を、当時の清王朝は支持し、列強諸国へ宣戦布告しました。

義和団の武装は、刀や槍が多く、銃は少なかった。対する列強は、近代化した軍隊。

1900年で、この程度ですw







武器が発達しなかったのではなく、

三国志演義、水滸伝ともに明代に書かれた小説であるため、

明代に存在する武器を、有名な武将に作品の中で持たせた、

というのが理由です。



中国でも時代を経るごとに武器は進化しています。

三国志演義で有名な武器と言えば、関羽の青龍偃月刀、張飛の蛇矛などがありますが、

西晋代に陳寿によって書かれた歴史書『三国志』(正史)には青龍偃月刀や蛇矛は登場しません。

なぜなら、その時代にはまだ存在しない武器だからです。



青龍偃月刀が歴史上に登場するのは、三国志の時代から700年以上後の宋代、

蛇矛が登場するのは1100年以上後の明代です。

三国志演義は実際の歴史に基づいたフィクションですから、

作者が作品の中で、関羽に青龍偃月刀を、張飛に蛇矛を持たせた、ということにすぎません。

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