よく 昔の三国志とか 日本でも 戦国物で 一騎当千の武者とかあり、 そしてたいてい、「この時代の戦においては 一騎当千の武者、 一人の豪傑で戦況が変化しうるのであった。」などともっともらしくかいてあり
ますが、本当でしょうか? たしかに強い奴はいるとおもいますが、 どんな強い武者でも3にんががりではだめではないでしょうか?所詮 一騎当千の武者は、 今で言う 漫画のヒーローみたいなものなのでしょうか?
三国志の場合はインパクトからそう思われたかもしれません。
三国時代の武の代表格とも言える関羽、張飛の場合は
関羽が単騎で顔良を討ち取った時も
あまりに信じられない出来事だったのか
その後顔良軍は関羽が悠然と立ち去るのを
見守る事くらいしかできなかったそうです。
張飛にしても橋の上に仁王立ちで大軍である
曹操軍を威嚇し、誰も襲い掛かる事ができなかったそうな。
関羽の場合は本当に「一人の豪傑で戦況が変化しうるのであった」を
成し遂げてしまったのですから
状況によるものでしょうが、敵を軽々しくみたいための警告的な
意味合いとしても「万人敵」や「一騎当千」という言葉で評しておく事は
対戦するかもしれない味方の武将にとっても分かりやすい情報になったかもしれませんね。
しかも、この関羽、張飛の武勇は相当なものとして伝えられているのか
後世の史書においても
晋の劉嘏は賊軍を攻撃するたびに堅城を落として鋭鋒をくじき
冀州地方では彼を関羽・張飛になぞらえていた。(晋書劉嘏伝)
苻秦は閻負・梁殊を使者として張玄靚のもとへやり
本国の将帥には王飛・鄧羌がいて、関・張の仲間、万人之敵であると誇示した。
禿髪傉檀が宋敞に人材を求めたとき、宋敞は
「梁崧・趙昌の武勇は、張飛・関羽と同等です」と言った。
李庠は人並み外れた膂力を持っており、趙廞は彼を立派に思って
「李玄序は一代の関・張である」と言った。(いずれも晋書載記)
宋の薛彤・高進之はそろって武勇強力の持ち主であったので
当時の人々は関羽・張飛になぞらえていた。(宋書檀道済伝)
魯爽が反乱を起こしたとき、沈慶之は薛安都にこれを攻撃させた。
薛安都は魯爽を眺め見るなり、すぐさま馬を躍らせて大喝し
まっすぐ突きかかり、手をくり出すとともに倒した。
当時の人々は、関羽の顔良斬りでさえこれ以上ではなかろう
と言った。(南史薛安都伝)
斉の垣歴生の武勇は傑出しており
当時の人々は関羽・張飛になぞらえた。(南史文恵太子伝)
魏の楊大眼は驍勇果敢
世間では関・張でもこれ以上ではなかろうと評判された。(魏書楊大眼伝)
崔延伯が莫折念生を討伐して勝利を収めると
蕭宝寅は「崔公は古代の関・張である」と言った。(魏書崔延伯伝)
陳の呉明徹が北進して高斉を討伐したとき
尉破胡らの十万人が着陣して楯突いた。
西域の者がいて無駄なく矢を発した。
呉明徹が蕭摩訶に告げた。
「あの胡人を倒すことができたならば敵軍は意気沮喪するであろう。
貴君には関・張の武名がある。顔良を斬ってくれるかね!」
蕭摩訶はただちに陣営を飛び出し
鉄塊を投げ付けてその者を殺した。(陳書蕭摩訶伝)
このように数多くの当世傑出の武勇を持つ者への賛美としても
関羽や張飛の名はそれに準えられました。
廿二史箚記の著者である、清の趙翼は
二公の武名がただ同時代の人々に慕われ、畏怖されているばかりでなく
死後数百年たっても、彼らに震えおののいて驚かぬ者はなかったのである。
武威名声は轟いて現代でも朽ちることはない。
天性の神武は決して空しいものではないのだ。
と締めくくって、纏めています。
史実においても記録されていたの事柄なので
本当にそんなことをやってしまう人物もごく稀であれ、いたのかもしれませんね。
一人で何十人もの敵を、瞬時に倒すような武将は漫画の中だけでの話でしょうが、そういう数字的なこととは違う側面もあると思います。
カリスマ的、伝説的な武将がその軍にいるというだけで、全体の士気は変わってくるものだと思います。それは野球の日本選抜チームにイチローがいるかいないかだけで、チーム全体の雰囲気が変わるようなものだと思います。
「今日の戦いの敵方のリーダーは関羽だ」。これだけで兵士たちは、「今日の相手は物凄く強い、負けるかも知れない、死ぬかも知れない」という気持ちを持ってしまうかもしれません。たとえ優勢に戦っていても「張飛が援軍にきた」だけで、浮き足立ってしまうかもしれないのです。
「もっともらしく書いてある」事の意味は、単純に個人の強さを指すのではなく、そういう事柄全体を指しているのだと思います。
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