2012年3月27日火曜日

三国志のおもしろエピソードなにかありませんか?

三国志のおもしろエピソードなにかありませんか?

三国志のおもしろい話や深いなぞなどたくさん教えてほしいです。



よろしくお願いします。







三国志演義では、現代では考えられないくらいの超人が出てきますが、その中でも際立つのが以下の①に書きます『兀突骨』ではないでしょうか。



①兀突骨:身長12尺(276cm)、身体がウロコで覆われており、生で獣や蛇を食する化物ですw…もう人間じゃないね。絶対にwww



②有名武将が使用した武具の重量の非常識さw関羽が使用したとされる『青龍偃月刀』の重さは82斤(18kg)、典韋が使用した『双鉄戟』の重さは80斤(17.6kg)。とても現代人が振り回せる重さじゃないです。こんなのを自在に使いこなせる武将は、これまた化物ですな。



また、三国志に関連した笑い話を一つ。

とある男が野ざらしになった骸骨を見つけて、丁寧に供養したところ、その夜に男の家の戸を叩く者がいました。「誰だ」と問うたところ「妃(フェイ)です」とのこと。さらに問うと「私は、日中に野ざらしになっていた骸骨で、名は楊貴妃です。供養してもらい、感謝の意も込めて、夜伽をさせてください」と話します。はたして、その夜、男と夜を共にしました。

この話を聞いた隣の男が羨み、自分も同じ恩恵を受けようと野ざらしになった骸骨を見つけ、丁寧に供養しました。するとその夜に男の家の戸を叩く音が。「誰だ」と問うと「飛(フェイ)だ」とのこと。「楊貴妃かい?」と問いかけると「俺は張飛だ」と答えます。「張飛将軍が、なぜ私の家へ?」と問いかけると「俺は殺されてから葬られもせずに野ざらしになっていた。貴公に供養をしてもらったゆえ、御礼として夜伽をさせていただきたい」と言い、男は大層たまげた。

という話もあります。



一つ思い出しました。

董卓が殺害された時、死体が晒されたのですが、肥満であったことからへそに芯を差し込み、火を灯したそうです。そしてその火は董卓の脂を糧として数日にわたり燃えていたそうです。








面白い話ではないですが、曹叡のチョットいい話でも。



曹叡が少年時代に、父親の曹丕に連れられて狩りに行ったところ、山間から鹿の母子が追い立てられて来た。

曹丕はすかさず母鹿を射止め、曹叡に対し子鹿を射るようにに命じた。

すると曹叡は泣きじゃくりながら「陛下が母鹿を殺されましたのに、そのうえ子鹿まで殺すのは忍びませぬ」と答えたという。





これを見ると、曹叡は優しい人物なのかなぁ?







魏の重臣 諸葛誕は司馬氏が曹一族をさいおいて実権を握っていることに不満を持ち反乱をおこすがすぐに鎮圧されてしまう 鎮圧寸前 誕 は部下にお前たちは降伏し生き残れと言いますが部下たちは一人として降伏せずにみんな死にました







郭氾は毒を飲まされたと誤解してうんこをのんで吐いたらしいです



孫権と張昭は仲が悪くてある会議で張昭の意見を孫権が却下したのですが

後で張昭の意見が正しいとわかり孫権は謝りに張昭宅

行くのですがなかなか張昭が出てこずいらついた孫権が張昭宅の門を土でふさぐのですが

張昭もうらから門を土でふさぎとうとう孫権が張昭宅に火をつけるのですが

それでも張昭が家から出てこないのであわてて火を消したらしいです



孟獲は実は孟獲のいた地方雲南では崇拝されており

その雲南では孟獲が孔明を7回捕まえて7回放ったという事になっている



呂布が曹操に殺された理由は1説には

張遼が降伏してくれたからすぐ裏切る呂布はいらないねという説がある



諸葛亮が劉備に仕えたのは曹操に仕えるより劉備に仕えた方が

出世できるという黒き打算があったからという説がある



趙雲には実は兄がいた



張遼にも張汎という兄がいた



賈くは4回主君を変えている



途中から話がそれましたが面白い話はこれだけです







三国志演義で、



張飛が勅使を縛り上げ、木の枝で叩きまくったというのがありますが・・・





じつは叩いたのは劉備です。







趙雲のエピソードはどれも大好きですが

彼の男気が感じられるのが、桂陽城太守趙範に彼の兄嫁を妻にしてやってもらえないか、とすすめられる場面です。



劉備軍が攻め込んで来たとき、あまりに趙雲が強かったので、趙範は彼を宴席にまねき、趙範の兄の未亡人を引き合わせて味方に引き入れようとしました。

それを趙範の下心と見抜いた趙雲は、顔面パンチをくらわせ、ふとどきな性根を一喝したそうです。



のちに、劉備と諸葛亮が、趙範の誘いに乗らなかったわけをたずねたら、趙雲は、

「趙範の兄とはちょっとした知り合いで、だからこそ彼の嫁をめとるのは人道に反する。その婦人も、人から後ろ指さされるだろう。

なにより、もし自分がそんな過ちをしでかしてしまったら、そんな家臣をもつ奴よと、世間から劉備があなどられ、天下統一の大業も成し遂げられなくなってしまいます」

と、いうようなことを言って、二人におおいに感心されたことです。

この、なによりも劉備第一に物事を考えるところがいいですね。







個人的には・・

曹操の友人が来て、もてなすときの酒の席で

食べものに、頭からつっこんで

頭巾をベトベトにし、AHAHAHAHA!

としていたというエピソード。



まねできない・・・







面白エピソードは、あらかた書かれているので、せつない話を書こうと思います。

陸遜の最後です。

孫権の後継者争いにによって、呉はほろんでいったのは、ご存知ですよね(孫皓がわるいんですけど・・・)?

その時陸遜は、孫権の三男の孫和を推薦していました。そして対立していた四男の孫覇を推薦していた重臣たちに恨まれ、身に覚えのない罪状が陸遜に届きます。陸遜は自殺しようとしましたが、自殺しては罪を認めたことになると思い、孫権」のところへ行き、話そうとしましたが、倒れてしまいました。その後無実だったことが分かり、孫権は後悔したそうです。

陸遜の息子のエピソードもあります。

名は陸抗といいます。陸抗は晋とにらみあっていたときに晋の羊祜という人物の素晴らしさに気づき、尊敬するようになります。羊祜もおなじで、陸抗を尊敬するようになり、お互いに敵同士でありながら、尊敬しあったということです。







劉禅が降伏する前に第5子・劉甚が涙ながらに降伏反対を唱え説得を試みたが受け入れられず、妻と子を殺し、自ら劉備の墓前で自害したそうです。

孔明の死後、ロクな人材はいませんでしたが、辱めを受けるより潔く死を選ぶ男気のある血縁がいた事に目頭が熱くなりました。







孫権が酔っ払い、酒宴に出席しなかった張昭の家に放火した(未遂?)という話を聞いたことがあります。







謎…?

知恵の輪は、諸葛亮公明が遠征に出ている間、奥様に寂しい思いをさせないための遊び道具として作ったのが始まりだと言われています(^^)



もう一つ。諸葛亮公明の子孫は、街全体を「八卦の陣」の形にして今も暮らしているそうです(かなり前にTVで観たので、町の名前などは覚えていないのですが…)







劉備が孫夫人と結婚して呉にいる時の話です。

孫夫人は男勝りで武術が大変大好きで普段から腰に弓矢を携えていて弓腰姫とも呼ばれていました。

侍女達にも常に薙刀を持たせていたりしていました。

劉備は結婚後、彼女の部屋へ初めて入ろうとした時、その光景を見て物凄く驚いて殺されると思ったそうです。

その後も彼女の部屋へ入る度にビクビクしながら入っていたそうです。



あと、曹操は若い時エンショウと花嫁泥棒をしていました。

結婚式の会場へ行き、大声で「泥棒だ!!」と大声で叫び出席者が驚いて外へ飛び出した隙に花嫁をさらって犯していたそうです。

とある日、失敗して追い掛けられていてエンショウが転んで茨に引っ掛かって抜けられないでもがいていた時に曹操は

「花嫁泥棒はここにいるぞ!!」と叫んでエンショウはビックリして何とかそこを抜け出し逃げ切れたことがありました。







姜維の話なんですが、彼が蜀に仕えるようになってから、魏では彼の母親に彼が戻ってくるよう手紙を書けと言いました。でも手紙のせいで息子が蜀で疑われることを心配した彼女は“当帰”という薬を送りました。「当に帰るべし」という意味を込めて。すると、母親の気持ちを知った彼は“遠志”という薬を送りました。意味は「遠大な志を果たす」という意味でした。息子の決意のほどを知った母は、以後、周りの人々になんと言われても意に介さなかったということです。

立派な子の親も立派だったんだ・・・と思いました。







自分は曹操が劉備に天下を取るのは私か君だと言った時

劉備が相手の警戒を解くために雷に怯える所ですね







やっぱり、赤壁の戦いじゃないですか。

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