2012年3月27日火曜日

三国志の登場人物で史実(真実とは限りませんが)と演義では活躍の度合いが全く違う...

三国志の登場人物で史実(真実とは限りませんが)と演義では活躍の度合いが全く違う人がいます。そのなかの厳顔について。


正史では巴郡太守で、劉備の入蜀について「一人で奥山に座し、猛虎を放って我が身を守るようなものだ」と嘆息したのと、張飛に捕えられ、断頭将軍の故事を残すのみです。

演義では大活躍していますが、何か下地の出典はあるのでしょうか?







いろいろ調べてみましたが、厳顔が活躍する話しというのは見つかりませんでした。

『華陽国志』は正史の記述をもとにしており、『張飛伝』とほとんど同じことしか書いてありません。



そもそも厳顔が劉備の武将となったかどうかもはっきりしていません。

『張飛伝』には「引為賓客」とありますが、これは厳顔を壮士と認めて縄を解き賓客として対応した、という意味で、部下にしたとは言っていません。

もし厳顔が蜀漢の将として活躍したのなら伝が立てられるはずですが、それが無いということは、蜀漢で官位を得ていないのではないでしょうか。



厳顔の出身地は三峡下りで有名な忠州ですが、この地名は唐太宗李世民が巴曼子と厳顔という2人の忠臣にあやかってつけたと言われています。

巴曼子は春秋時代の巴国の将軍で、楚の属国になるのを拒否して自殺しました。

厳顔も張飛に許された後、蜀漢には仕えず、劉璋が降伏したら巴郡で自殺したのではないでしょうか。



宋の詩人蘇東坡は厳顔を謳い「劉璋固庸主,誰為死不二(劉璋はもともと庸主であり、死んで二君に仕えないという者がいるはずが無い)」、「国亡君已執,嗟子死誰為(国は滅び君主は既に降伏してしまった。厳顔の死は誰のためだったのか」と言っています。

暗君劉璋は国を棄てて降伏したが、厳顔は忠義を全うして自殺したようです。



更に、宋末文天祥の有名な詩『正気の歌』に「為厳将軍頭,為嵇侍中血。為張睢陽歯,為颜常山舌」とあります。

厳将軍は厳顔、嵇侍中は嵇康の子・嵇紹で八王の乱で皇帝を守って死んだ忠臣、張睢陽は張巡、颜常山は颜杲卿でどちらも安史の乱の時に殺された唐の忠臣です。

この4人の筆頭になっている厳顔が、実は劉備に降伏して天寿を全うしていた、というのはふさわしくないように思います。



忠県という名前、蘇東坡と文天祥の詩から、宋代頃までは厳顔は劉璋が降ると自殺した、という考え方が普及していたように思います。



但し元代の『全相三国志平話』では厳顔が張飛に降ったことになっています(下巻に「厳顔免死納降」とあります)。

知識人の間では厳顔は忠臣として死んだが、民間では殺すに忍びなく、劉備の部下として功を挙げた、と語られていたかもしれません。

その『平話』でも厳顔に関しては、張飛に降って王平を仲間に招き入れたくらいの活躍しかなく、ほとんど名が出てきません。

(『平話』の王平は劉璋の将でしたが、厳顔に誘われて劉備に降りました。その後、孔明の南蛮討伐に従軍して雲門関を攻めるが落せず処刑されています)



『三国志演義』がとりいれている話はだいたい宋元の頃には講釈などで世に広まっていたはずですが、厳顔に関しては特に出典はなく、ほとんどが『三国志演義』の創作ではないでしょうか。








『華陽国史』や『三國志集解』までは読んでないので、詳しくはわかりません…。

想像で申し訳ないのですが、アチラの(知識人の?)考え方では、「対」がけっこう重要みたいです。対句とか。

で、文人が書いた文人のための演義が『三國演義』だとすると、黄忠との対かと思います。

様々な要素で、二つ一組で落ち着くペアがけっこうあるはずです。



で、劉備ヒイキの演義なので黄忠が活躍し、黄忠の対として厳顔がジイサンにされて活躍。たぶん、降服せずに処刑された張任とも、厳顔は対でしょう。



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