2012年3月27日火曜日

三國志、魏の夏侯淵は、実際のところ定軍山でどのように討たれたのでしょうか。推...

三國志、魏の夏侯淵は、実際のところ定軍山でどのように討たれたのでしょうか。推測でもいいので教えていただけませんか。







正史では、

漢中が平定されると夏侯淵は漢中の守備として残され、

征西将軍に任命されました。

張郃、徐晃に巴を攻撃させ、一時は占領しましたが、

張飛の反撃に遭ったため撤退しました。

その後劉備が漢中に侵攻し、にらみ合いは何年も続きます。



219年、劉備軍は夏侯淵の陣営の囲いに火を放ち、総攻撃をかけます。

夏侯淵は張郃に東の囲いを守らせ、

自分は軽装の兵士を率いて南を守ります。

張郃が敗北したため、

夏侯淵は手勢の半分を張郃の救援に向かわせましたが、

法正の策により劉備は半減した夏侯淵の本隊を攻撃します。



劉備はまず夏侯淵の本営より十五里離れたところの逆茂木を焼き払いました。

夏侯淵は兵士四百人を率いて自らこれを修復にあたりますが、

黄忠は高所に昇り背後から夏侯淵を攻撃します。

夏侯淵は黄忠の軍を、更に迂回することに成功し、

背後から黄忠を攻撃しますが失敗し

そこを黄忠に反撃されて討ち取られました。(定軍山の戦い)



この顛末は、

曹操が軍中に下した命令書にも見えます。

「夏侯淵は今月、賊軍が逆茂木を焼き払ったため、

逆茂木は本営から十五里も離れていたのに、

兵士四百人を引き連れて逆茂木のところへ行き、兵士に補修させた。

賊軍が山上から遠望しており、谷間から突然に飛び出してきた。

夏侯淵は兵士たちに賊軍と戦わせつつ、

そのまま迂回して彼らの背後を突いたが、

兵士たちは後退し、夏侯淵は帰ってこなかった。

なんと痛ましいことか。



夏侯淵はもともと用兵が得意でなかった。

軍中では彼を『白地将軍』と呼んでいたのである。

督帥になれば自分では戦闘さえしてはならぬものだ。

それなのに逆茂木を補修するとは!」

と嘆いています。



正史に書かれた夏侯淵の最後が、多分史実なのではないでしょうか。



ちなみに、

従軍していた夏侯淵の第5男、

「夏侯栄(幼権)」が13歳(!)で戦死したとされます。

張飛の妻・夏侯氏(夏侯淵の姪)は、

戦死した夏侯淵の遺体を

首を含めて埋葬してほしいと劉備に願い出たともされます。

(13歳が戦場に何故?という疑問がありますが・・。)



演義では、

蜀の黄忠は天蕩山を攻撃して張郃を打ち破り、

さらに定軍山を攻撃しようとしました。

諸葛亮は「夏侯淵は張郃の比ではない、手強いぞ」と警告します。

夏侯淵は計略で陳式を捕虜とし、 夏侯尚との人質交換を行いますが、

黄忠が夏侯尚に矢を射掛けたため黄忠に斬りかかります。

しかし蜀軍が総攻撃の勢いを見せ、部下が銅鑼を鳴らしたため退却します。

法正の発案により、蜀軍が定軍山の西側の高い山を攻め取ると、

夏侯淵は劣勢に立たされ、総攻撃を受けて黄忠に討ち取られました。



管輅は「西蜀で兵が境を犯し、定軍の南で一股を失う」と予言していました。

曹操は心配して曹洪を援軍として送りましたが、

夏侯淵の死を防ぐことは出来ませんでした。

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