三国志で次の武将の最期を教えてください。
厳顔、馬岱、王平、曹仁、曹洪、カク、韓スイ
宜しくお願いします。
王平 (?-248)
正史によると、元々巴郡の雑多な独立勢力の一つに仕えていたが、曹操が漢中の張魯を下した際にこれらは曹操に帰順し王平も曹操に帰順した。
その後、劉備が漢中・巴蜀を制するとこれに降伏し、以降は蜀漢の武将として忠義を尽くして出世した。
248年に病没した。
演義では漢中の地形に詳しいということで徐晃に付けられたが仲たがいして殺されかけたので蜀に投降した事になっているが、実際は漢中の支配者が変わったのでこれに仕えたという程度の話であった。
曹仁 (?-243)
若い頃は乱暴モノでうかつな所があったが、壮年になって経験をつむと優れた将軍となった。
曹操没後、すでに夏候淵は亡く、夏候惇は病気になってまもなく亡くなったので、曹仁が大将軍となった。
223年に濡須で呉と戦ったが、これは敗北に終わり、その直後に病死した。
この戦闘中後方で指揮を取り、最前線に姿を見せていないことから、戦傷による死ではなく、すでに出陣した時病であった可能性が高い。
曹洪(?-232)
曹操は曹洪の財貨と女色を好む性格を熟知してうまく使ったが、曹丕とは仲があまり良くなく、しかも本人も食客も行いがよくなかったので処刑寸前までいったが、結局赦された。
曹叡の代になると再び登用されたが、相変わらず行いはよくなかったという。
232年に死去した。
生年は不明だが190年の曹操の挙兵に参加しており、その前は地方で役人をしていたというから、亡くなったときはそれなりの年齢と思われ、病死と考えるのが自然である。
韓遂(?-215)
演義では離間の計にはめられて、馬超に疑われ殺されかけ、曹操に降伏するハメになるが、正史では離間の計は成功するものの殺し合いにはならず、疑心暗鬼の中で涼州連合軍は曹操軍に破られてしまっている。
韓遂は涼州奥地で抵抗を続けたが以前の勢力はもはや無かった。
215年に曹操は張魯討伐の為に西征を行ったが、この時涼州近辺の独立勢力の頭目たちは曹操へ帰順する手土産として韓遂を討ち首を献上した。
この頃韓遂が病死したので、死後に首を斬って献上したともいう。
賈詡(147-223)
実は曹操より年上で、曹操が死んで曹丕の代になった時には70才を過ぎていた。
223年に77歳で病死した。
自身外様である事を自覚し、巧みに処世し生き残ってきた人物であり、特に何かあって死んだわけではない。
厳顔・馬岱(?-?)
二人とも正史・演義ともに死亡の記事がまったく無い人物。
よってどのように亡くなったかは不明。
馬岱は234年に魏延を斬った後、235年に魏と交戦して退却したのを最後に史書から姿を消す。
厳顔については張飛に降伏した後、劉備の臣になったというくらいしかわからない。
その後の活躍はすべて演義によるものである。
・厳顔
不明です。『三國志』蜀書張飛伝にて、劉璋の将であった事と張飛に敗れて捕らえられ、賓客として処遇された事が伝わるのみです。
ただ、厳顔の最期については約1年前にも質問がありました。参考になるかと思います。
http://chie.mobile.yahoo.co.jp/p/chie/qa/view?qid=1042578495
携帯URLですので、見られなければ「厳顔」で検索下さい。2010年6月23日解決のzigentaishiさんのご質問です。
・馬岱
不明です。蜀書魏延伝にて反乱して逃亡した魏延を追いかけて斬り殺した話が伝わるのみで、その死は語られていません。
・王平
蜀書王平伝によれば、益州巴西郡の出身ですが一度洛陽に出て曹操に仕え、漢中征伐に従軍して劉備に降っています。
その死は248年に「亡くなった」とあるだけで判然としません。
・曹仁
223年に亡くなっていますが死因ははっきりしません。ただ直前まで対呉前線で指揮を取っており、戦病死の可能性が最も高いでしょう。
なお、享年は56歳であったと伝えられています。
・曹洪
明帝曹叡の即位後、後将軍→楽城侯・特進→驃騎将軍と昇進・封爵加増を受けたのち、232年に亡くなっています。おそらくその頃には前線には出なくなっており、病死と考えられます。
・賈ク[言羽]
223年に77歳で亡くなっており、年齢から考えても病死でしょう。曹丕の即位後には太尉に登っており、地位を考えても前線に出て戦死するような事はなかったはずです。
・韓遂
潼関の戦いで曹操に敗れたあと、数年してから西平・金城あたりの諸将と抗争になり殺されました。一説には病死したため、その首を奪われて曹操に献上された、とも言われています。つまり、病死なのか戦死なのか判然としません。
以上、参考になれば幸いです。
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